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2012 09,14 23:45 |
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「30年代に原発ゼロ」=福島第1事故受け政策転換-新エネルギー戦略策定・政府将来の子供たちに残すもの、という意味で、エネルギー政策の記事は比較的読んでいる。 この記事、それから輸出は継続という記事についてのコメントは、原発0がどうかではなく、民主党政権に対する不信感が色濃く出ているものばかり。もはや、今の民主党ではどんな政策を語っても、嘘をついているとしか映らないのかも知れない。それも仕方のないことではあるが。 しかし、「詐欺フェスト」の書き込みには笑った。 こういう、書き込みにいちいち反応していたら切りがないのだが、あまりに鈍感になりすぎるのもどうか、という気もする。 さて、原発ゼロ議論である。 正確な数字が公表されないため、定量的な論議ができないが、おそらくゼロの方針は、エネルギーコストの面からは、間違っていないのだと思う。 原発の発電コストが安く抑えられているのは、多くの補助金を国がだしているからであり、原価に地域への補助金、福島の事故を教訓に求められている追加の安全策、40年の寿命を厳格に守る場合の償却費、使用済み核燃料最終処理方法の開発費、廃炉費用などなどを全部電気代に積むと、おそらく膨大な金額となり、高いと言われている火力発電の数倍になるのではないかと思う。 思う、というのはこのあたり誰も正確な数値を語ろうとしないので(語るとまずいのだろうけど)、コストの定量値が分からないからだ。 前段で、「エネルギーコストの面からは」と注釈したのは、ここには、原発開発を行うことで蓄積される日本国内の技術的知見、原発を他国に売ることによる売上高、周辺諸国の原発の質を向上させることによる安全の確保、エネルギー源の多様化によるエネルギーセキュリティ、原発立地地域の活性化への影響などなどが、このコストには入っていないからである。 本来論議すべきは、高額であるはずの原発維持費を明らかにして、上記に記載したもろもろの内容への投資として妥当かどうかを判断すること、である。どこかの一面だけを見て、やるかやらないか、という薄っぺらい議論で、決められることではない。 政治家先生も、東大出の官僚も、このくらいのことが分からないほど、阿呆ではないはずだが? 選挙に向けた人気取りに、子供たちの将来が壊されていくのは、なんとも悲しいことだ。 世代間経済戦争に突入することが見え見えの、年金や医療費の議論にくらべたら、原発議論は利害が一致しやすく、やりやすい論議のはずだ。なにが論点かを、きちんと国民に伝えることができない、プレゼンテーション能力が欠如した、政治家や官僚に辟易するビジネスマンは少なくあるまい。 少なくとも我が子には、物事を論理立てて、分かりやすく説明する能力を育てたいものだ。 それが、親の責任だと、しみじみ感じる記事であった。 PR |
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2012 05,01 02:51 |
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勝間和代(経済評論家)×村木厚子(内閣府政策統括官兼待機児童ゼロ特命チーム事務局長)vol.2"空気のような差別"が満ちるこの国で女性が直面する「産み悩み」と「育ての苦労」 |
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2012 02,22 20:16 |
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<橋下市長>小中学生に留年検討 大阪市教委に指示
毎日新聞 2月22日(水)11時15分配信 大阪市の橋下徹市長が、小中学生であっても目標の学力レベルに達しない場合は留年させるべきだとして、義務教育課程での留年を検討するよう市教委に指示していたことが分かった。法的には可能だが、文部科学省は年齢に応じた進級を基本としており、実際の例はほとんどないという。 ・・・ 小中学生の留年記事である。 橋本さんらしいといえば、らしい。こういう記事に反応してしまうとは、我ながら親になったものだ、と思う。 メディアで描かれる橋本さんは、行動は大胆だが、本当に国のことを考えていると映る。国のことを考えているが、あまり人のことを考えていないように思うのは、私だけではない気もするが。 それはさておき。 この記事に対し、「片岡義男とニュースのブログ」では、挫折も必要かもしれない、なんて意見もあるようだが、小中学生に留年を求める意図が挫折を味あわせるためではなく、子供たちに効果的な教育を行うためであることは、明らかである。当年で学ぶべきことがきちんと身についていないのに進級しても、更に分からなくなって勉強が辛くなるだけである。そうならないための留年措置は、子供の最終学力を伸ばす意味では有効だと思う。 とはいえ、この方策に対しては意見が2つある。 1つは、留年した子供へのケアである。挫折という言葉が真っ先に来るように、留年する=出来ない子との烙印を押される、というイメージが多くの人の中にあるようである。これは、日本人が横並びでないといけないという村八分への恐怖心を未だに持ち続け、かつ減点主義により失敗した者の責任を問う風潮のせいであると思われる。成長著しい子供のある一時期において、学力という限られた1側面が、同学年の平均値を下回っていたとして別に劣等感を抱く必要はないし、何かに失敗したわけでも、誰かに迷惑をかけたわけでもない。そもそも、大人たちが、そして親たちがそういう目で見るから、子供も大人の態度を見て、留年する=出来ない子とまるで人間そのものを否定するような見方をしてしまうのである。つまり、真にこの制度を進めるにあたって重要なのは、子供のケアなどではなく、大人の意識改革である。大人たちの意識改革もセットで提案していただきたいと思う。 2つ目は、留年という制度を1年区切りでやると、子供にとってその時間は長すぎると思われることである。当年の学力が十分に身についていなかったとしても、出席日数が病欠により0日という場合以外は、多少の知識や経験が増えているはずである。特に、学力テストで測る以外の、道徳心、協業の力、競争心など共同生活の場で培われるものはとても多い。学力が基準に達していなくても、人として精神的な成長を年齢相応に遂げているケースもある。そういう児童に対し、1年の経験を丸ごと再度やりなおすというのは、いささか乱暴だと思う。塾でやっているような、習熟度別クラスや、高校では既に当たり前になっている単位制の導入のほうが、より効果的であると思う。 もし、上記の課題を十分に認識した上で、現行制度ですぐやれる留年制度の実効をとりあえずの手段としてやらせたとすると、すぐ出来ることをやったという意味で評価はするが、ビジョンが不明確という意味ではがっかりするアクションという評価になる。 橋本さんって弁護士やってたくらいだから、きっと学校の成績はよかったんだよね。テストの点がうまく取れなかった人のことも、もう少し考えないと、足元すくわれると思うなぁ・・・。 |
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2012 02,18 00:46 |
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ちょっと誤解を招くほど刺激的なタイトルにしてみました。
パパスイッチでそれって、マザハラ?という記事を読みました。世の中のダークな側の面を見た記事ですが、とても共感できる内容でした。確かに、あるある。そういう場面。 個人的には、不快なことや人の悪いところは、気づいてもすぐに忘れてしまう性格なので、 「そこが問題だ。なんとかしよう!」 と意気込むところまで、なかなかたどり着かず、 「僕の周りって、いい人ばっかりだなぁ。やっぱ、ラッキーなのかな?僕の人生。」 なんて、思う日々です。 で、本題。 最近、ようやく、男も女も関係なく家事育児もお勤めもやりましょう的な雰囲気が社会に少しずつ芽生えてきた、と感じているのですが、きっと精力的にいろんな活動をしてきた方々のおかげなんですね。ありがたいことです。 そういう世の中の流れもあってか、冒頭のママハラの記事もそうだし、働く女性が居づらい話とか、夫が協力してくれない話とか、まぁそういった話が巷に溢れているわけです。 中には、 「子供が一番かわいくて、一番成長著しくて、24時間べったり一緒にいられる一生に一度のチャンスに、子供をあずけて働きに行くなんて、どうしてそんな勿体無いことができるの?」 というような意見もあっていいと思うのですが、そういう意見って、殆ど目にしません。働いているママは、一体どう考えているんでしょうか?ちょっと気になってしまいました。やっぱり、 「お金さえれば、誰が好き好んで働くかしら?そりゃ、子供とずっと一緒にいたいよ。」 と思っているのか、 「24時間ずっと子供と一緒なんて、気が狂いそう。ちょっと仕事に出るくらいで丁度いい。」 と思っているのか。あぁ、聞いてみたいぃ~~。 以前、会社の同僚のママ(今は4歳の子供がいる)に、ちょっと聞いてみたら、 「10ヶ月育てたら、もう十分。これ以上24時間一緒にいるなんて辛いよ。仕事で息抜きしてるって感じ。それに、私は子供を育てることに生きがいを感じられないみたい。会社で働いた方が、社会貢献してるって感じがして、生きがいを感じるよ。」 と言ってました。 へぇ~。そうかぁ。 でも、これも極端な意見かもしれないし。 ただ、最近感じるのは、子育てから逃げたい、とまでは言わないまでも、子育て云々ではなく、自分が働きたい!そのためにこの過ごし難い世の中を何とかしたい!という、「私が私が」メッセージがとっても多いなぁ、ということです。 私は、家族の幸せはママの笑顔から、と考えているので、自分の奥さんがやりたいことをやって、それが子育てだろうと趣味だろうと仕事だろうとよくて、それで笑顔でいてくれれば、それがいい。だから、奥さんの「私が」メッセージは、とても応援したくなる。でも、それは、家族だから。そして、自分のかけがえのないパートナーだから。 外に向かって、そういう我の強いメッセージを出すのは、ちょっと格好悪いかな? 「私が笑顔でいたら、家族みんながハッピーなんだよ。だからこれでいいんだぁ!」 って自信持っていえるママってどのくらいいるんだろう?つまり、自分のためじゃなくて、誰かのためになっているって自信がないと、大声ではいいにくいわけで、子供のため、夫のため、家族のためを考えた結果が、今の自分なんだよと言えるかってこと。 それが、思いやり。 冒頭のママハラも思いやりに欠ける行為。家事や育児を「分担」しなきゃいけない。そこに思いやりはありますか?年金に世代間格差があるという。そこに思いやりはありますか? 大人たちの思いやりがなくなってきていると感じます。 子は親の鏡といいます。 20年後の子供たちは、いったいどういう人に育っているんでしょうね。 |
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2012 02,10 21:03 |
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子を持つ親にとって、おそらく年金は気になる話題の1つだと思う。子供たちの世代では、世代間格差による過払いは数千万円に及ぶとか。過払いの中身が、将来もらえないということなのか、現役世代の支払いが多いということなのか、それともその両方なのか。いずれにしても、老人を養うために金銭的な生活水準が落ちることを意味しているのは間違いないだろう。
不幸なのは、彼らは贅沢な生活を知っているということだと思う。高度成長期以前の世代は、何もない環境からスタートし、だんだん生活水準が上がっていったが、今度は違う。人は贅沢には簡単に適応できるが、質素になることにはなかなか適応できないものだ。 確かに生産性は向上したが、欧州に比べれば物を欲しがる国民性、資源産出国(労働力も含む)の経済成長、日本がもはや小国の1つでないと認識されている(円レートの見直し)により、世界の中では相対的に裕福でなくなっていることに気がつかなくてはいけないと思う。これまでと同じスピードで生活水準の向上を望むならば、より多くの労力を技術やサービスの革新に充てなければならない。医療や介護により多くの労力を割けば、生活水準向上のスピードが鈍っていく。 両立する方法はただ1つで、子供の数を増やすことしかない。 つまり。 これまでどおりの生活水準の向上を望み続ける限り、年金対策と少子化対策は表裏一体なのである。 かなり乱暴な意見かもしれないけれど、政府には年金は積み立てたものを返してもらうという構造は破綻していると宣言して欲しい。自分が積み立てたものではなく、現役世代によって生かされているのだと。 そうであれば、子育てに投資した人に、多くの年金が戻る仕組みにするべきである。多くの兄弟を貧乏になることを承知の上で育て上げた親こそ、たくさんの年金を受け取る権利があると思う。そうでなければ、公平でない。そうなって初めて、子供は自分で育てないけど、社会として子育てに貢献したいという意見が出てくるのだと思う。他人として子育てに貢献すれば、間違いなく自分の子供が欲しくなる人が増える。親として、自分の子供が育つ姿を見ることほど、楽しいことはない。そんなことは、子を持つ親なら誰でも知っている。 子供を持たないと損だ、と思える社会に、早くなればよいと思う。 これは極論だが、子を産み育てることが、種の存続には不可欠で、子育てをしなくなった種は滅ぶしかない。ちょっとだけ、その縮図を見ているような気がした。 年取った人と若い人が、少ないパイを取り合って争う姿は、見たくないですね。 |
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